電気ケトルを買おうと思うんだけど。(ガス代が高くて死にそう)
今月のガス代なんと1.5万!
あーつらい、つらすぎる、つらたんたん…。
ということでひとまずガス代を減らせそうな方法を考えたけれど、うちはガス会社を変えられないので小技を駆使することにした。今チューハイを飲みながら僕が考えられたのはせいぜいこの3つくらい。許してクレメンス。泣
①お湯の温度を下げる。
②湯船にはるお湯の量を減らす。
③電気ケトルの購入←new!!
まず①だが、僕は食器洗いやお風呂洗いだってしちゃうマメ男だから、お湯の温度には敏感な方である。(ドヤァ)
この寒い時期の12〜2月でも、食器や浴槽を洗う位ならお湯の温度はそれほど高くなくていい。僕個人の体感だけど33-34度くらいあればオッケー。あまり低すぎると油汚れなどは冷えて固まって取れにくくなり時間もかかってしまう。そこは適度な温度や漬け置きでカバー。
あとゴム手袋をしてお湯を使わないという選択肢もあるが、僕はゴム手袋が苦手なのですみません、よく分からないでござる。(^人^)
②湯船にはるお湯の量を減らす。
うちは1歳と3歳の子どもが2人いるので基本的に一年中浴槽にお湯をはっている。
となるとガス代もバカにならないので見直すことにした。例えば一日1リットル減らすだけで月に約30リットル減らすことが出来る。もし3リットル減らしたら90リットルの削減。途端にエコパワーが上がった気がしなくもない。
合わせてお湯の温度も無理のない範囲で少し下げることができればベストかもしれない。
ちなみにだいたいの浴槽が200〜250リットル溜めることが出来るみたい。うちは元々半分くらいしか溜めていないから100リットル前後かな。洗濯に残り湯を利用しても余る日があるから、調整していけば無駄のないギリギリのラインが見えてきそうな予感。洗濯物の量が日によって変動があるので、そこは前日から合わせたらいいかもしれない。
最後に③の電気ケトルの購入。
これは昔使っていて便利だったなーと思いながら、結婚を機に捨てた。古くなって汚くなっていたのと、容量が家族で使うには小さかったから。でも最近では1リットルを超えるサイズで有名メーカーのものでも割と高くないみたいなので、将来的なランニングコストも含めて検討中。あっという間にすぐに沸くことで有名メーカーだとカップ一杯のお湯も0.6円程度とコスパ良し。お茶やコーヒーにと日に何度もお湯を沸かすうちの家庭、どうしてもっと早く気づかなかった…。メルカリで未使用品を物色しつつ、チラシもチェックしてみようかな。
さてさて、もうチューハイも飲み終わり眠たいので寝ます。ケトルの懸賞あらへんかなー、探してみよう。
【めちょっく!】プリキュアが終わってしもうた。
我が家の楽しみの1つであるHUGっと!プリキュアが今日最終回だった。
作画もそうだけどストーリーも大人が見ても楽しめるもので、逆にメッセージ性が強い話もあって子どもは理解出来ているのかなと思うこともあったくらいだった。
そして「何でも出来る!何でもなれる!」というセリフの通り、他のプリキュアにはない展開が話題になり、SNSでも時々取り上げられていた気がする。例えば
女の子でもヒーローに、
男の子でもドレスを着たり、
メンズプリキュアが誕生したり
最後はなんとはなちゃんがガチ出産したり…。
時代の流れというかボーダレスというかジェンダレスというか、アホなのでいい言葉が浮かばないんだけど、それを幼児向けアニメでやってるところがオープンマインドだなと思った。いろんな意見がありそうだけど僕はいいなって思う。
思い返せばこの1年間、ハウスメーカー主催の着ぐるみのイベントに連れて行ったり、ハッピーセットのおもちゃが出たら行ってみたり、夏はスタンプラリーのためローソン巡りもした。スーパーやドラッグストアに行けばプリキュアのおやつをねだられそれを買ってあげるとパパのポイントが上がる。一時的に。それもこれも含めていい思い出だった。
そんなわけでミライクリスタルはもちろんタンバリンやミライフォン、ドールにフィギュア、ハリーのショップのおもちゃなどいろいろある。これら全てが一年ですっぱり終わってしまうのは寂しいなと思う反面、また次のプリキュアが放送されたらすぐハマってグッズを買ってあげたりするんだろうなと「うまくできてるなぁ」と感心してしまう。笑
そして子どもより親の方がHUGっと!プリキュアロスになっているのはうちだけじゃないと信じたい。
さぁみんなで叫ぼう!めちょっく!!(´༎ຶོρ༎ຶོ`)
追記:そういえばはなちゃんの旦那様ってクライアス社のトップのおじさんってことでおk?教えて偉い人…
脇が甘いと感じたら祈りを捧げよ
厚手のロンTってそのまま干したら脇の下乾きにくいよね。特に曇りの日なんて確認しなくても分かる。冷たくてぐったりしてる。
だからいつもこうして"お祈り"させるんだ。
脇の乾きが甘い時はお祈り。覚えておいてね。
新聞は今晩のおつまみを決める。
我が家は新聞を取っている。今時ニュースなんてスマホやテレビで見ればいいと言われるが、スマホでは基本的に他のことを見ているのでニュースは見ていない。テレビもそんなに観ていない。それにウェブでニュースをみると興味もなければ見たくもない芸能ゴシップネタばかりでうんざりさせられる。それに新聞にはチラシがあり、これが楽しみと言っても過言ではない。
そして今朝、価格破壊が得意なとあるスーパーで牡蠣が一袋100円だったのでまとめて買ってきた。この写真で5袋分で540円。しかも一袋で14個くらい入ってた。
冷凍するため下処理をお願いし、一袋だけそのままおつまみのアヒージョを作ってもらった。前から作り置きしてもらっていた鶏ハムとセットで今日は飲みました。デブは脂が好き。
え?新聞のくだりはどうしたって?
ご馳走さまでした。
芝の上も飛べるはず
君は芝の上をスーパーマンのように飛んだことがあるかい?僕はあるんだよ。
小学生の時、遠足で奈良公園に行くことになった。僕は大阪の小学校に行っていたので隣の県へ行くとなればちょっとした旅行のような気分でワクワクしていた。
母親にお弁当のおかずをリクエストして、友だちと駄菓子屋に遠足のおやつを買いに行き、何度もリュックの中を確認して楽しんでいた。よく旅行は計画したり準備しているのが楽しいというが、まさにそうだと思う。
遠足前には先生からの注意や守ってほしいことがアナウンスされた。鹿がお弁当を狙いにくるのでなるべく鹿のいないところで昼食をとること、また鹿せんべい以外の食べ物をあげないこと、あと公園の芝は滑りやすいので丘の上から駆け下りないことという内容だった。
僕はとても素直で真面目な男の子だったのできちんと話を聞いていた。聞いていたんだよ。けれどね、そうさ。あなたの想像通り、僕は芝の上を飛んだんだよ。
言われた通りちゃんと鹿にせんべいをあげ、お弁当も狙われないように友だち4人と背を向けて座り、四方を守りながら食べた。
なのに、最後の最後で言われたことを守らなくちゃと頭の中で念仏のように「走ったらあかん、丘の上から走ったらあかん」と心の中で唱えていると、それがどこでスイッチが切り替わったのか分からないが、気づいたら「走ってみたい!この丘を!全力で!」に変わり、猛スピードで丘を下っていた。
6歩ほど駆けたところで「あ、まずい。これは止まらんやつや」と気づいたが時すでに遅し。予想より遥かに速いスピードで駆け出し、風を切る音がはっきり聞こえた。それに重なって友だちが「危ない危ない!」って言っているのが聞こえた。
「止まらへんー!」と言いながら
引きつった顔で駆け下りる僕。
心配している友だち。
冷静に見つめる鹿の群れ。
足がもつれてこけても止まれず、さらに勢いよく転げ落ちた。柔らかく水を含んだ草は冷たく、土は野性味溢れる香りと程よい硬さだった。僕は激しくぶつかりながら転がり、最後は体が宙を舞い、スーパーマンのように飛んだらしい。横から見ていた何人かの友人は「一瞬スーパーマンみたいにまっすぐ伸びて飛んでた!」と感動しながら報告してくれた。アイアムスーパーマン、イェア☆
そして帰る時間になり集合すると、僕だけまるでドラゴンボールか北斗の拳の世界に行って闘ってきたかのような、全身傷だらけでしかも体操服のゼッケンも取れかかっているという歴戦の戦士のような姿だった。
先生や親には心配されたもののかすり傷程度で済んだので何ともなかったが、転げ落ちた時に草で切った無数の切り傷がお風呂に入ると染みた。しばらくこの痛みのおかげで僕はスーパーマンであったことを身をもって感じられた。そして大人になった今でも草の匂いを嗅ぐとあの日のことを思い出す。
もしかしたら、まだ飛べるかもしらん。
ワクワクしたのになぁ。
さっき大きな佐川のトラックが自宅の近くに来た。
これはもしかしたら僕がたくさん出したテレビの懸賞が当たったんじゃないかと思ってインターホンが鳴るのを待っていた。
そしたらトラックの大きなエンジン音が鳴り響いて去っていった。つまらないなぁと思ってユーチューブにアクセスした。でも何を観るわけでも聴くわけでもなかったので2秒くらいで閉じてしまった。
世の中だいたいこんなもんである。
売り場や販売は好きだけど、接客はもういいかな。
※オブラートなしの記事ですので、接客販売職以外の人は閲覧お控え推奨でござるよ。
僕は少し前まで接客をメインにした販売の仕事をしていたんだけど、ここ数年お客さんの求めるサービスレベルが異常に高くなっていて苦しくなった。お客様は神様だというオーラをまとった、まるで絵に描いたような人も最近では平気で来るようになった。
良識のある方からすればそんなことないだろうと思われるかもしれないが、これが実際にいて、むしろ売り場にいる人間が一番びっくりしているといっても過言ではない。
というのも通販やネットショッピングが浸透した今、もはやモノを買えるのは当たり前で、お店に行くからには期待以上の感動やサービスを求められるからだと感じている。これがぶっちゃけしんどい。これ以上書くと荒れそうなので辞めておくけれど、売り場にいる人は労働者で、喜び組でもなければスーパーエンターテイナーみたいなものでもない。
例えば食品系なら試食は貰えて当たり前、手厚い接客や話を聞いてもらって持ち上げてもらい心地よくしてもらうのも当然。少しまとめ買いしようものなら「大口割引とかあるの?」と聞かれる。ちなみに大体そういうことを自己申告してくる方は大口とは言えない数が多く、ご期待に添えないことが大半である。
あとは店とは関係のないところでジュースこぼしたから拭くものをくれだとか、必要以上に袋やおしぼりを要求されることもある。例えばハロウィンなど子ども向けでやっているイベントで無料配布するものも、いい歳こいたおばさんや老夫婦が人数分くれと言う。あぁこの方々は主旨や立場をお分かりでないのかと悲しくなる。他には最安値品をひとつだけ買って子どもが5人と大人が2人いるので7つくださいとか言われるのもがっかりする。
問い合わせに至っても、いつでも望み通りの数がすぐに出てくることをしつこく確認されたりするが、入荷の状況や売れ行きによって在庫に変動があり、100%確実にいつでもストックがあるわけではないことを伝えると、ないのが悪いかのような反応をされることもあった。食品系は特に日持ちや突発的なまとめ買いなどもあり断定はできない。そこをご理解いただけないのも辛たんである。
とはいえ、散々ここまで愚痴のように書き連ねたが、こういう風に申されるということはこちら側に満足されない不十分な点があるということでもあるので、無茶なものは除いて逆にそこをお客様が感じられるレベルで改善が出来れば一気に高評価に繋がる。実際にそれでクレームを言われた方がリピーター様に変わることもあった。
あといちいちをストレスにせず受け流しできる考え方として、クレームやご指摘など、突き詰めては目の前、電話越しにいるお客様へ誠意が伝われば期待以上で丸く収められることは多い。これは社内関係でもそうかなと思う。
こういうちょっとややこしい人間関係やコミュニケーションもコントロールできるようになれば、接客販売系の仕事で売り上げ以外にも達成感を覚えられるようになり、少しはやりがいに繋がるかなと考えている。
まぁでも接客はもういいかな。うん。(え)
すなおなおす
素直な♂
それは僕のことだ。
<僕は信じ込みやすい。>
本やネットに書いてあることはすぐに鵜呑みにしちゃう。そして妻や職場の人に「うたがわないの?」と言われたりするが、何故疑うのか分からない。だって書いてあったもん。(ドャァ)
<僕は騙されやすい。>
よくよく考えればそんなオイシイ話があるはずない。もしあるならみんなとっくにやっているはずなのに、まさに今発見したかのような、ブルーオーシャンだと信じ切って海にダイブしてしまう。だって信じた方が夢や想像が膨らまない?嘘でも信じたくなるなぁ。
<僕はピュアだ。>
これまでの友達や彼女の言うことについて、疑うなんて発想がなかった。だって自分が好きな人の言うことなら、きっとちゃんとした意図があるはずだって、思ってた。
とまぁこんな風に、僕はとーっても素直な男の子だったので、いろいろからかわれることはあったものの、こういう風に育ててくれた両親やその環境を取り巻いてくれた友人たちには感謝している。そんな風に語るわりに、今現在僕のアドレスには親友2人の連絡先しか残っていない。お分りいただけただろうか…?
追伸:ちなみにタイトルは回文にはならないんだな、これが。
365日未満。
この数字は、あなたが離れて暮らしているご両親に、亡くなるまでに会えるおおよその回数。よく一人暮らしのバイトちゃんに話したエピソードである。
例えば僕は三十代前半、親が還暦で80まで生きたとして年に2回会える計算で80-60=20@2でたったの40日しかない。倍の年に4回会えたとしても80回しかない。約2.5ヶ月分だ。
長く見積もって20歳の方でご両親が38歳、
年に4回会えても80歳を寿命とすれば、
80-38=42@4で168日、1年の約半分しかない。
(ちなみにどちらかが不慮の事故などで亡くなれば、この計算より遥かに少ない回数しか見積もれない。いや、不安を掻き立てているわけではないが。)
これを多いか少ないかと捉えるとのは人それぞれだと思うが、幼少期に文句垂れながらも毎日当たり前のように一緒に暮らしていたあの頃を思えば圧倒的に少ないはずだ。
ちなみにこの考え方は僕がこれまで転勤続きで両親とは離れて暮らしていた時にふと感じたことである。
チキンハートボウィな僕は、転勤したてのころは半べそになりながら「辛いわぁ寂しいわぁ」とか電話してたが、適性がある仕事と職場だったようで、3ヶ月もすればケロッとしていた。そして半年も経てば携帯を変え電話番号とアドレスが変わったことを伝え忘れ一年ほど音信不通になってしまうという身勝手な親不孝もやってのけてしまった。
こんな記事をおセンチに書く癖に、当の本人である僕が当時の話とはいえこの程度の捉え方なのだから、あなたに大層なことは言えない。
それでも1つだけは言える。たまにでいいから実家に帰ろう。
理由なんてなくていい。お土産とか忘れて帰っていいから。
ご両親は、あなたが帰ってくる。それだけで十分なのだから。
〜幸運の基準〜 雇われている幸せ (起業やネットビジネスは辛いよ)
有名な投資家ウォーレンバフェットは
"幸運な1%として生まれた人間は、残りの99%の人間のことを考える義務がある。"と言っていた。
僕はこれに当たる人は雇用を創出できる、誰かを雇うことができる社長さんのような存在だと思っている。あとはどんなだろう、特異な才能持った人とか、ノーベル賞取れるような方とか、世にまだ見たこともない新しい発明をされる方とかかな。最も現代社会は生き方や働き方も多様化しているので、もっと他にも表現があるかもしれないが、僕はバカなのでうまく書けないでござる。
そしてこれはあくまで僕はって話だけど、どちらかというと雇われている側の方が幸運じゃないかなと感じている。
仕事が終れば今日もお疲れプシュって缶ビールあけてユーチューブとか観ながらおつまみ食べてゲームボーイで遊んでいても問題ない。もちろん社長さんにもそんな日はあるだろうけれど、きっと僕ほどたるんではいないだろう。時には自分のやりたいことを差し置いてでも、自分の仕事や関わる人のことを考えなきゃいけない時もあるんじゃないかと思っている。
そして僕があぁまた仕事めんどくさいなぁとか思っている頃、トップは大きな責任を背負い、社会や会社、従業員のために舵を取り事業を展開しているに違いない。それってとても凄いことだと思う。人生において人脈とか運とか能力とかいろんなことを含めてそういう星のもとに産まれた人にしかできないんじゃないかと思っている。ちなみに僕にはこんな大それたことはしたくない、ていうか、出来なかった。
これまたうまく言えないけど、人にはそれぞれ耐えられるレベルのストレスや環境があり、仕事であれば適性もある、それらと私生活とかいろいろひっくるめて各々で幸福の尺度を持ち合わせている、と思う。
そう考えるルーツと言えるか分からないけど、僕は昔ネットビジネスで食べていこうとお金をかけてドメイン取ってワードプレスでサイトを作って1年間で40万円近くするビジネスコミュニティに入って「この講師陣のカリキュラム通りにやれば一年後にはイケてるビジネスマーンや!」とか思ってたりした頃があった。で、実際にそのコミュニティの人たちのセミナーに出たり懇親会などに行くと気づく。あれ?こんなバブリーな生き方したかったんやろか?なんか違うなぁ。そもそも僕は人と話すのは好きやけど、友達は少ない。そう心を開ける性格でもないし、ビジネスライクな付き合いとか分からへんし、あーもう面倒くさいなぁ。ってなった。
それに身にしみて感じたのは、お金のために興味や経験のないことを学んでやっても、よっぽどの気持ちがないと続けられないってことだった。
需要のありそうなことをビジネスにしようと自己啓発系の本をバカほど読んだ。時間管理にアファメーション、集中力に行動力、結果を出すマインドが云々とか、よく考えてみればこれらを読んでやり込んで体得しないと自分の言葉には出来なくて、そこまでいかないと他人に売れるような代物にはならないってことや、僕みたいにそもそもやってる本人が意識高い系になって満足してるようなオナニーなコンテンツはクソでしかなかった。
まぁ僕はヘタレなので一年足らずで労力とコストに見合わないなーと、辞めてしもうたわけですが。
雇われていたらやるべきことをこなしていけばあらかたは済む。ただビジネスオーナーや自営業の方々は全方位をちゃんと見張っていないといけない。なんだか心が休まらない気がするが、それはやっぱりできる人の元へと向かうものだと思う。
だってほらさ、これだけ世の中不景気だとか言われてますが、家族手当に住宅手当、保険とか、業務に関係ないところでいろんな恩恵に授かれているんだから、何だかんだやっぱり雇われているのはありがたいと思う。福利厚生ない会社もあるけど。
社畜とか会社の歯車とかいろいろネガティブな表現されてますが、それでも守られてるなって。もし嫌なら裸で野に放り出されても1人で生きていけなきゃいけない。僕はそんなに強くないなぁ。みんなもそんなに強くないんじゃないかって、煽りとかじゃなくて素直に思うよ。
おじいちゃん基金
朝9時ごろかな。ちょうど休みの日のこと、近所のコンビニに用事があり出かけたら、出てすぐの曲がり角で財布を拾った。
年期の入った二つ折りの茶色い財布。
周りを見渡してそれらしい人はいないかと見てみたが、あいにく通勤の時間も過ぎたことからサラリーマンや小学生などいつも通りかかる人たちもおらず、仕方なく確認のため開くと免許証が入っていた。優しそうなおじいちゃんが写っていた。
お金もいくらか入っていたので怖くなり、ひとまず自宅に戻りことのあらましを妻に説明し、最寄りの交番に届けた。お巡りさんと一緒に中身を確認するように言われ、お金は50,000円程入っており、他にはメモや診察券らしきものが数枚入っていた。
免許証が入っていたのでその日の夜には持ち主に届き、お礼がしたいとの電話があった。どうやらうちのご近所で庭の剪定のお仕事をしていてその時に落としたそうで、翌朝には奥様と一緒にお礼に来てくださった。
これで終わりならよかったのだが、そのおじいちゃんはご近所さん家の庭の剪定をしているので、我が家から見えるところにおられる。加えて僕は比較的お休みが多い時期だったので、本当によくお見かけすることがあり、申し訳なく思った。お礼とはいえおじいちゃんが目の前で一生懸命働いて得られたお金を、僕は財布を届けただけでもらったのだから、何とも言えない気持ちになった。
けれどそんな申し訳ないなと引けた心で使わせていただくのも忍びないし、良いことをしたんだから胸を張って生きようと思った。そしてもらったお金は家族のために使おうと思った。僕はこれを勝手におじいちゃん基金と名付け、お出かけした際の外食費など、みんなで分けあえることに使った。
ちなみに僕はかつてガラケー時代に携帯電話を大阪の繁華街の駅で落としたことがあった。もう確実に見つからないだろう、ロックもしてないから悪用されたらおしまいだと肩を落としながら一応駅の拾得物で問い合わせた。そしたら落とした時のままの画面で届けられていた。この時のほっとした感じは今でも思い出せる。
あと一人暮らしをしていた時はパスケースを落としたことがあった。商店街を歩いている時に落として、幸い夜も遅く僕がすぐ落としたことに気づいてそわそわしていたら、ご夫婦と目があって、その方が持っていたのが僕のパスケースだった。これも本当に救われた。
何が言いたいかわからない文になったけれど、僕が財布拾ったとかはどうでもよくて、世の中捨てたもんじゃないねってことを伝えたかった。長かった。
ビニール紐で救えるセカイ
昨年末の話。
日の暮れも早くなり暗くて寒い夜、お隣さん家が鍵を家の中に入れたまま締め出し状態になってしまった。ちなみにこのお隣さん家とうちは家族構成がよく似ていて、互いの庭で子どもたちがよく遊んでいる。うちは娘、お隣さん家は息子さん、いわゆる幼馴染ってやつ。うんうん。
聞いてみれば子ども2人と荷物を入れるため、ドアチェーンを立ててドアを開けていたら、何らかの拍子にドアチェーンが降りてしまったのとこと。つまり家の中からドアチェーンがかかってしまい、そして旦那さんはお仕事で不在、家の中は無人であるという状態。
一旦うちにあがりますかと聞いたもののやはり遠慮もされていたようで、じゃあとりあえず子どもたちが寒くならないようにとブランケットを渡してあげた。
何か役に立たないもんかと一緒に外に居ながらあれこれ話し合った。お母さんは一応鍵のレスキューを読んだそうだが、来るまでに時間がかかるため自己解決できる方法を探されていた。見つけたのがユーチューブでドアチェーンで締め出された時の対処法ってやつ。ユーチューブにアップしてくれた人ありがとう。
https://m.youtube.com/watch?v=TzFU8t6gRic
その方法はと言うと、外からドアチェーンにビニール紐を結びつけ、そのままドアの上を這わせる。鍵とは反対側にビニール紐を引くことでドアチェーンを倒してロックを解除するというのだ。
早速うちからビニール紐を持ってきてやってみた。するとものの1分足らずでドアチェーンが外れ、世界が開けた。ビニール紐でお隣さんご家族3人を救えた。すごく感謝され、「さすが○○ちゃん(娘の名前)のパパ!」と言われたが、そうそうお世辞だったとしてもね、いやいやすごいのはこのビニール紐以外の何者でもないんですよ。いやでも困っている人を助けられたことは素直に嬉しかった。
ビニール紐は世界を救う。
それまでの僕が持つビニール紐のイメージといえば、(僕が不器用なせいで)うまく新聞や段ボールを結べないし、すぐ裂けるしヒゲみたいなのが静電気で手に絡みつくしこんなんの何がええんやろかとか思ってたけれど、イヤァスミマセェン、トッテモステキデシタァ。。
あなたも車の中かポストの中にでもビニール紐を入れておくといいかもしれない。
きっと誰かを救えるはずだよ。
fin
承認欲求
ブログは日記の代わりとか、書くことで思考が整理できるとか言ってみたりして、その実結局は誰かに読んでもらいたくて、見てもらえたらなって思って書いているはずなのに、見られないままだったらどうしようとか思うとそんなことあけすけに言えない。(書いてもたけど。)
けれどそんなチキンでもそのままでいられるのがここならいいなと思っている。
自分を隠したり変に最適化したり塞ぎすぎたり我慢をさせるとどうなるかを、人生を棒に振りかけてまで知ったからこそ、同じ轍は踏めない。